待降節 と 四旬節 B年 グイノ・ジェラール神父の説教
B年
2014年〜2015年
待降節 と 四旬節
待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4史実
主の降誕 (夜半)
四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日
待降節第1主日 B年 2014年11月30日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ63,16-17、19、64,2-7 1コリント1,3-9 マルコ13,33-37
「ADVENTUS」と言うラテン語の言葉は、「人が来る前に」という意味です。 来られる方を私たちは良く知っています。 それは私たちの救い主イエスです。 イエスの最初の到来は2000年前にベツレヘムの村での彼の誕生でした。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1,14)と聖ヨハネは証しします。 人間になることによって、神は私たちに全ての豊かな恵み、特に「神のあらゆる言葉と神への知識と言う恵みを与えて下さった」と聖パウロはコリントの信徒への手紙の中で説明しています。 イエスの第二の到来は、彼が再び栄光の中に来られる出来事です。 確かにミサ毎に「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と司祭が宣言します。 しかし、キリストの最初と最後の到来の間で、イエスは「喜んで正しいことを行い、神の道に従って、主を心に留める者を迎えます」(参照:イザヤ64,4)と、今日、預言者イザヤは私たちに思い起こさせます。
イエスを迎える為には、私たちは見張ることと、警戒することが必要です。 それでは、見張ることとはいったいどういうことでしょうか? 預言者エレミヤの生涯の中のある出来事が、これを説明することに役立つと思います。 エレミヤ書1章の11節から12節に次にように書かれています。 「主の言葉がわたしに臨んだ。 『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。 『アーモンドの枝が見えます。』主はわたしに言われた。 『あなたの見るとおりだ。 わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。』」と。 ヘブライ語の「シャーケード」という言葉は、同時に「アーモンドの木」と「見張ること」を示しています。 言い換えれば、見張ることはアーモンドの木のようになることです。 何故なら真冬の全てのものが眠っている間に、最初に花が咲くのは、アーモンドの木です。 従って、見張る人はアーモンドの木のようにまだ眠っている人々に春の訪れを告げる人です。 見張る人は夜の寒さにも拘わらず、光と命のしるしを見分ける人です。
見張ることはまた、「いつ家の主人が帰って来るのか」を知らないことです。 使徒言行録と言う本の始めに、未来を知りたい自分の弟子たちにイエスははっきりと答えました。 「父が御自分の権威をもってお定めになった時間は、 あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1,7-8)と。 ですから、日常生活の出来事を通して私たちを迎えに来るイエスを見分ける為、そして希望を失わない為に、見張ることと目覚めていることは、聖霊の力を受けることです。
「目を覚ましていなさい。 いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからです」(マルコ13,35)。 アーモンドの木のように、鶏はまだ暗い内に、明け方が近いことを最初に知らせる動物です。 イエスの弟子たちとして「暗闇と死の陰に座している者たち」(ルカ1,79)に私たちは希望の歌を叫ぶ筈です。
神への私たちの飢えと渇きを深め、そして救い主に対する期待を起こす為に、この待降節の時が大きな助けとなりますように。 聖パウロが勧めているように、最後まで耐え忍ぶことが出来るように目覚めていて、警戒しましょう。 また、シャルル・ド・フーコー神父が勧めているように「今日の夜、死ぬということを知っている人のように、主を迎えるための準備をきちんと整えなさい」と。 ですから、喜びの内に全ての瞬間に私たちを迎えに来るイエスを歓迎するように、目覚めて警戒しましょう。 アーメン。
*「見張ること」は、新共同訳聖書の中ではいつも「目覚めている」となっています。 しかし、本来の意味はここで説明したように「見張ること」、「気をつける」、「気を配ること」です。
待降節第2主日 B年 2014年12月7日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ40,1-5,9-11 2ペトロ3,8-14 マルコ1,1-8
マルコの福音はこの言葉によって始まります、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と。 言い換えれば、神はイエスによって新しい創造を始めます。 従って、この待降節の間に、自分の心にある消えそうな希望の灯に、新しい力を与えて、燃え立たせる為に私たち自身を新たにするように召されています。
「福音」と日本語で訳されたマルコの「よい知らせ」は、大きな喜びを伝えます。 それはイエス・キリストの復活の出来事です。 神はイエスにおいて、私たちに永遠の命の門を大きく開けました。 そして「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれています」(ローマ5,5)。 イエスは、預言者イザヤが約束した神の慰めと赦しを私たちにもたらすお方です。 イエスは、聖ペトロが述べ伝える新しい天と新しい地に対する希望を私たちに与えてくださるお方です。 更にイエスは、荒れ野で洗礼者ヨハネが叫ぶ「命と真理の道」であり、イエスだけが私たちを父なる神の所へ導くお方です。
待降節の最後の日まで「キリストが私たちをしっかり支えるために」(1コリント1,8)また、救い主としてイエスを迎える為に、私たちが「神の前にきずや汚れが何一つなく、平和に過ごす」(2ペトロ3,14)ように、預言者イザヤと洗礼者ヨハネは整えるべき道、歩くべき道を教えています。 何もせずに、私たちは来られるキリストを待つことが出来ません。 どうしても、私たちは「主の道を準備」することや自分の心をもう一度回心させることが必要です。
確かに、主を迎える準備は自分の心の中に始まります。 「喜んで正しいことを行い、主の道に従って、神を心に留める人を神は迎えて下さる」(イザヤ64,4)と先週預言者イザヤが教えました。 私たちの心の内に神の道の通行を邪魔するものを捨てること、また神と全く関係のない考えと行いを自分の生き方から消し去ることは、緊急の必要事項です。 更に、神の言葉を読み、黙想し、味わい、実践する時間を作りましょう。 それは「神の慰めと赦し」(第一の朗読)を味わう為に、そして「新しい天と新しい地」(第二の朗読)を早めに引き寄せる為の最もよい方法です。
洗礼者ヨハネは、群衆に教えたことを先ず自分が行いました、そのために、彼は自分の内に聖霊の喜びが溢れる事を感じ、それを公に伝えます。 「わたしは花婿の友です。 わたしの心は喜びで満たされています」(参照:ヨハネ3,29-30」と。 洗礼者ヨハネは神から委ねられた使命を実践したので、彼の心が神の慰めと平和と喜びで満たされました。
ですから、この待降節の間に当たって、洗礼者ヨハネそして聖パウロと預言者イザヤに倣いましょう。 イエス・キリストの友となる為に、また、神の慰めや喜びや平和が私たちの心を満たすように、神が頼まれ、教会が提案することを真面目に、敏速にぐずぐずせずに実行しましょう。 アーメン。
待降節第3主日B年 2014年12月14日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ61,1-2、10-11 1テサロニケ5,16-24 ヨハネ1,6-8、19-28
待降節第三の日曜日は、喜びの日曜日と呼ばれています。 この日は伝統的に、救いの期待を示す紫色が、喜びをあらわすピンク色に変えられます。
「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る」(イザヤ61,10)と言い預言者イザヤは、抱いている自分の喜びを伝えます。 数世紀後、自分の従妹のエリザベトの前で、マリアは預言者イザヤの言葉を繰り返し、ご自分の言葉も加えながら 「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださいました。 主はわたしに偉大なわざを行いました」(参照:ルカ1,48-49)と言いました。
喜びは信仰のしっかりとした支えなので、聖パウロは迫害されているテサロニケの共同体の信者たちをこの言葉で力づけます。 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 …神があなたがたに望んでいることです。」(1テサロニケ5,16-17)と。 更に、自分の弟子たちがキリストの後に従うように、洗礼者ヨハネは彼らに「わたしは喜びで満たされている」(ヨハネ3,29)と打ち明けます。
今日の日曜日の喜びは特別な喜びです。 人が「恵みの上に、更に恵みを受ける」(ヨハネ1,16)為に、この喜びは人の心を開き、拡大します。 また、今日の日曜日の喜びは自由を与え、伝染病のように人から人へ移ります。 更に、この喜びは宣教的な力をもたらすので賛美と感謝することを誘い、人々と分かち合うように教え導きます。 今日の日の喜びはとても深く、神が永遠の昔から私たち一人ひとりのために与えようと望まれるものです。 勿論この喜びは賛美と感謝、分かち合いと信仰の証しに密接に結ばれているのです。
その為、ミサ祭儀はいつも喜びの泉です。 ミサ祭儀の時、私たちの祈り、賛美、分かち合いによって、キリストの苦しみと死が愛と永遠の命の泉に変化します。 実際にキリストの現存を与えることによって、ミサ祭儀は「ご自分を探し求める人々に、神が与える喜びを」(参照:詩編105,3)味わうように私たちを強く招きます。 聖霊の賜物であるこの喜びは、私たちが、自分たちの弱さと犯した罪にもかかわらず、愛の完成に辿り着くように大きな助けとなります。
さて、洗礼を受けるために集まった当時の群衆に、洗礼者ヨハネは次のように言いました、 「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と。 しかし、現代の私たちはイエスをよく知っていますし、また信仰の絆によってイエスと一致しています。 人生のすべての出来事を通してイエスを見分けることを学ぶことは、喜びと刷新の泉です。 ですから今日の日曜日のミサと喜びを、益々信仰によって生きる招きとして受け入れましょう。
洗礼を受けた時に、主が「わたしたちに救いの衣を着せ、そして、わたしたちに油を注がれました」。 事実、私たちはキリストを衣として着ています。 そして、私たちの人生が喜びの泉となるように、主の霊が私たち一人ひとりの上に豊かに注がれています。 神が、予言者イザヤ、洗礼者ヨハネ、イエスや聖パウロを遣わしたように、私たち皆を遣わします。 なぜなら、私たちが神からいただいたものを全て、他の人に伝え分かち合わなければならないからです。
私たちの信仰が輝くもの、また伝え易いものでなければなりません。 これこそ、神が私たちに望んでおられることです。 洗礼者ヨハネに倣って、救い主キリストの証人となりましょう。 神の愛を宣言すること、神の道を整え、人々にその道を教えることに関心を持つようにしましょう。 ですから、神の愛する兄弟姉妹の皆様「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。 これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。 アーメン。
待降節第4主日 B年 2014年12月21日 グイノ・ジェラール神父
2サムエル記l7,1-5、8-12、14-16 ローマ16,25-27 ルカ1,26-38
クリスマスの喜びを迎える為に、今聞いた「お告げの話」をゆっくり味わいたいと思います。
大天使ガブリエルは、マリアの家に入った時に次のように挨拶をしました。 「おめでとう、恵まれた方。 主があなたとともにおられます」と。 あらゆる時代の芸術家たちは、マリアの心に沁み透る神の言葉の神秘を具体的に示そうとしました。 彼らの作品に基づいて「お告げの出来事」の神秘を黙想し味わいましょう。
大きな翼の大天使ガブリエルは、ドアのない、壁の少ない家の中に入ります。 その家には垣根で囲まれた綺麗な庭があります。 この庭は創世記の話にある「エデンの園」を思い起こします。 その庭は人間が原罪を犯す前の庭であり、神への信頼や神と人が親密な関係を味わった庭です。 またこの庭は、マリアが新しいエヴァであることを表しています。 この事実をはっきり宣言する為に、大天使ガブリエルはラテン語で「アヴェ」と言って「エヴァ」の名をひっくり返します。 エヴァは全人類に死をもたらしましたが、新しいエヴァであるマリアを通して、神は創造されたものを全て新たにします。 マリアは神によって「選ばれた方」であることをよく理解する為に、芸術家たちは大天使の左の手に一本の白い百合の花を持たせます。 なぜなら大祭司アロンと聖ヨセフに対して、神の選びが、花が咲いた一本の杖に知らされたからです(参照:民数記17,16-23)。 確かにマリアは「恵みに満たされた方です」。
伝統的にマリアの手に、或いはすぐ傍に小さな本が置かれています。 それは大天使ガブリエルがマリアの家に入る前に、マリアは自分に関係のあるイザヤの預言を読んでいたことを示す為です(参照:イザヤ7,14)。 しかし大天使の挨拶の言葉が、マリアの心の中に不安の種を蒔きます。 「主があなたと共におられます」。 このような挨拶の言葉は、いつも特別な使命を果たすため神が選んだ人に言われる言葉だと知っているマリアは、非常に戸惑います。 しかし、現在では私たち一人ひとりが神に委ねられた使命を実践する為に、ミサ祭儀の時に司祭が何度もこの同じ挨拶の言葉を繰り返します。
そこで、マリアが持つ小さな本に書き記されている全ての約束、即ち神が今から実現しようとすることを、大天使ガブリエルは戸惑っているマリアに説明します。 マリアは身ごもって、ダビデ王の王座を受け継ぐ男の子を産み、彼は永遠にヤコブの家を収めるでしょう。 マリアはこの約束をよく知っていますが、どのように神がそれを実現するのか全く分かりませんので、これについて大天使に尋ねます。
ガブリエルは、最も表現力に富む言葉を使いましたが、彼自身もマリアも遥かに超える神秘、即ち神の入り込めない雲に隠されている神秘を完全に説明出来ませんでした。ので、「いと高き方の力があなたを包む」と言いました。 聖書の証しによると神はいつも雲の暗闇の中でご自身とその力を掲示します(参照:出エジプト40,34、列王記上8,10、エゼキエル43,1-7)。 大天使ガブリエルは、それ以上言えないので結論として「だから」と言うだけです。 更に自分の説明が足りないと分かって、言い訳を考えて、マリアの従妹の年老いたエリサベトの内に6か月前から行われている命の奇跡を大天使ガブリエルは付け加えて「神にできないことは何一つない」と結論します。 この言葉ではなにも解決できませんが、信仰に入るための貴重な誘いです。 この信仰は人が神の計画に対して、支配することと知識を持つことを禁止しています。 そう聞いたマリアは、深い信頼を持って、自分の内に行われる神の計画を直ぐに承諾します。 「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように」と。
他の言葉を加えることは必要ではないと思います。 私たちが全てを支配しないこと、全てについての知識と理解を得ないことを承諾して、マリアのように、神に揺るぎない信頼を示しましょう。 またマリアと共に、聖霊の助けによって神の言葉を守り、心で思い巡らすことを学びましょう。 最後に、私たちの内に、そして私たちと共に神がご自分の救いと憐れみの計画を実現する為に、私たちの体と命を神の手に委ねましょう。 このようにすれば、聖パウロがローマの信徒への手紙に語っている「信仰による従順」に辿り着くことや「イエス・キリストを通して神に栄光を」返すことが出来るでしょう。 ですから、私たちがもう直ぐ迎える新しいクリスマスによって、自分たちの心に神の愛の神秘を受け止め、そして喜びの内にその愛を周りの人々に伝えるように勤めましょう。 アーメン。
主の降誕(夜半のミサ)B年 2014年12月24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ9,1-6 テトス3,11-14 ルカ2,1-14
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」(ヨハネ3,16)。 イエスの目立たない誕生の内に全人類の将来が決められました。 ベツレヘムの夜の中で母マリアは何世紀も前から約束された子供を産みました。 天使の合唱団は、一つの声になって、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌います。 そして二千年前から世界中のキリスト者たちは、至る所で預言者イザヤの言葉を伝えます「本当に、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(イザヤ9,5)と。
ユダヤ教やキリスト教のように「神は愛」、「神は私たちを愛する」、「神は愛の内に、愛によってすべてをおつくりなった」と言う宗教は他にありません。 クリスマスは、幼児の内に掲示されている神の愛の祝日です。 神が私たちを愛することを発見するのは、クリスマスです。 また「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛します」(イザヤ43,4)と私たち一人ひとりに言われるために、私たちと同じようになられた神を歓迎すること、これこそクリスマスです。 クリスマスの日から私たちの命は、神の命に等しくなりました。 私たちが神の命に生きるように、神は私たちの為に死をお選びになるほど私たちを愛しておられます。 この事実の知らせは、人を感動させると同時に、人の心から喜びにあふれる感謝と賛美を湧き出させます。
自分の友人テトスへの手紙に「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2,11)と聖パウロは書きました。 いつも神学的な意味で「恵み」と翻訳されたギリシャ語の「karis・カリス」は、「優美な美しさ」と「愛らしい善良さ」「優れた賜物」「親切さ」と翻訳する方が良いと思います。 ご存知のように「カリスマ・聖霊の賜物」また「カリタス・愛徳」という単語は、ギリシャ語の「カリス」に由来しています。 従って、ギリシャ語によると大天使ガブリエルはマリアに挨拶する時に、「おめでとう、恵まれた方」と言うのではなく、「喜びなさいマリア、あなたは優美な美しさを持っている」或いは「神の目にあなたは愛らしいお方です」と言っているのです。 同様に、エルサレムの神殿に捧げられたイエスについて「幼児は神の恵みに包まれている」(ルカ2,40)と翻訳されていますが、ルカは「神の優美、神の善良さがイエスを包まれている」ことを書きました。 更に、十二歳のイエスが両親と共にナザレの村に戻る時に、ルカは再び同じ事を書き記します。 日本語の分かり易い翻訳では「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された」(ルカ2,52)ですが、正しい翻訳は「イエスは、神と人の前に、その知恵も背丈も恵みもますます増していかれるのでした」(バルバロ訳聖書)です。 このように書くルカは「イエスが恵みの上に更に恵みを受けていた」ことではなく、むしろ「イエスの内に神の寵愛がますます現れました」と言うことを教えようとします。 その為に日本語の翻訳では「イエスは愛されている」と書かれています。
このようにクリスマスの祝日は、馬小屋の飼い葉桶の中に眠っている乳飲み子の内に現れる神の恵みを啓示します。 即ち、この恵みとは全人類に対する神の優雅な善良さと神の寵愛を、私たちが幼いイエスの顔に見つけるように、私たちは皆招かれています。 イエスにおいて、神の寵愛が具体的に受肉することによって示されたことを、聖パウロはコロサイの信徒への手紙で説明します。 聖パウロが神の優雅な美しい神秘を宣言するのは「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるためです」(コロサイ1,28)、言い換えれば キリストに結ばれて、全ての人が神の優雅な美しさや愛らしい善良さに包まれる者になるのです。 そう言う訳で、聖パウロはいつも次の挨拶の言葉で自分の手紙を終わります。 「恵みがあなたがたと共にあるように」(コロサイ4,18)と。今夜、個人的にも共同体的にも、自分たちの生き方によって、神ご自身の優雅な愛と愛らしい善良さを示すように、聖パウロとクリスマスの雰囲気が私たちを招きます。
現実の世界では、醜さと醜悪が段々この世を満たしています。 しかしイエスの誕生は神の美しさは救いの計画と深い関係があることを思い起こさせます。 今夜クリスマスのイルミネーションや奇麗な飾り、また私たちの明るい歌と祈りは、この世界が失った神が強く望む美しさを取り戻そうとしています。 夜の暗闇を照らす小さなろうそくのように、この夜私たちもクリスマスの喜びに光り輝く者となりましょう。 そして自分たちの模範的な生き方によって、この世界を改めて美しくしましょう。 ですから「神の恵みがあなた方と共にあるように」。 アーメン。
【参考】本語で単純に翻訳されている「恵み」と言う言葉は、ギリシャ語で次の意味を表しています。
、daura、ドウラ=賜物、捧げもの、無償で与えられたもの (マタイ10,8、ヨハネ4,10、15,25、使徒8,20、ローマ3,24、
ローマ5,15、2コリント11,7、ガラテヤ 2,21、エフェソ4,7、ヘブライ6,4、 黙示録21,6)
、カリス=優雅な美しさ、寵愛、愛らしい善良、親切さ、寛大さ、挨拶の表現 感謝。
( ルカ1,28、 2,40、 2,52、 4,22、 17,9、 使徒15,40、 ローマ3,24、 7,25 1コリント1,3、 15,57、 2コリント8,4、2コリント 9,15、 ガラテヤ1,3、 エフェソ1,6、フィリピ1,2、 テトス2,11、 1テモテ1,12 )
Karisma、カリスマ=聖霊の賜物、神の恵み。(ローマ5,15、 6,23、 11,29、 12,6、1コリント 12,4 1ペトロ4,10)
四旬節
四旬節第1主日 2015年2月22日 グイノ・ジェラール神父
創世記9,8-15 1ペトロ3,18-22 マルコ1,12-15
今日の典礼は創世記の朗読から始まりました。ノアの神は罰する神ではなく、むしろ創造された宇宙万物に平和の契約を提案する神です。人々がご自分に二度と逆らわないように、神は彼等にその方法を与えることをノアに約束します。神はご自分の約束の目に見えるしるしとして、虹を空に置くのです。それを見て人々は、神から受けた契約を覚えると同時に、神に対して忠実であることの大切さも思い出します。
「救いの道を教えてください」と神に願う詩編作者は、この契約を思い起こします。 「神よ、あなたに従う道を教えてください。あなたはわたしを救って下さる神。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを思い起こしてください」(詩編25,4-7)と。詩編の作者にとって、神の愛と慈しみを認める事、それは神の救いの道を歩む事と同時に、神の平和の契約を実現する事です。
聖ペトロは復活の光でノアの物語の意味を教えています。世の罪を背負ったイエスによって神は私たちを救います。結果として、罪が私たちの上に引き付ける神の裁きと正しい罰を受ける事を私たちは免除されています。罪のないキリストは、罪びとの身代わりとして死にます。且つ、イエスは陰府の国に下って、死の支配の下に置かれた人々にご自分の救いのメッセージを伝えました。 こうして、すべての人は神と共に生きる招きを受けました。「私たちを神のもとへ導く為にイエスは苦しみを受けて死にました」と聖ペトロが私たちに思い起こさせます。キリストの流された血は「新しい永遠の契約の血」のしるしです。
キリストが砂漠で受けた誘惑を、聖マルコはとても短い二つの節にまとめて、大切なことを見事に教えました。誘惑は、するべき事と、してはいけない事を目的としません。むしろ誘惑は、神に対する信頼と不信に関するものです。そう言う訳で、イエスは毎日「誘惑に陥らせず、 悪からお救いください」と神に願うことを私たちに真剣に願っています。一番危ない誘惑は、神との絆を失う事と教会の秘跡から離れる事によって、信仰を失うことです。
書かれた福音書の中で、マルコは「イエスが野獣と一緒におられたが、天使たちが彼に仕えていた」と指摘します。イエスは全ての被造物の間に、アダムの時から失われた調和を取り戻す為に、父なる神から遣わされた事をマルコは教えようとします。イエスは神と人々、創造の世界と人々を和解させ、また人々をお互いに和解させる為に来られたからです。更に、イエスは私たちの為に天の門を大きく開きました。それは私たちが、天使たちと聖人たちの交わりの中に生きる事が出来る為です。天使と聖人のように私たちも神の親密さの内に生きる事が可能となりました。ただ神は私たちに悪の力と誘惑、また神から私たちを遠ざける物事を退けながら、神に対して揺るぎない信頼を示すことしか頼んでおられません。
ですから四旬節の間に私たちの信仰を養い、強める為に肝心なものを探しましょう。 神に自分の愛と信頼、そして感謝する心を示す為に、顔と顔を合わせて神に祈る時間を見付けましょう。聖霊が分かち合い、親切さ、愛徳の道に私たちを導き、支えるように願いましょう。洗礼を受けてキリスト者となった人は、ペトロが教えたように「神に対して正しい良心を持ち、キリストの復活に与かる」人です。イエスが望む回心とは、私たちが愛と信頼の内に神の子として生きることです。ですから、キリストの血によって神が宇宙万物と結ばれた全ての契約が、父なる神の愛の交わりの内に親密に生きる助けとなりますように。そして私たちが、キリストの弟子として行い、それが人々に見えるように、聖霊も大きな助けとなりますように互いの為に祈りましょう。アーメン。
四旬節第2主日B年 2015年3月1日 グイノ・ジェラール神父
創世記22,1-2、9-13,15-18 ローマ8,31-34 マルコ9,2-10
神は二度アブラハムに自分の子から完全に離れるように要求しました。 最初は自分の妻サラと彼女の僕でありイシュマエルの母であるハガルとの間の絶え間ない喧嘩のせいで、アブラハムは長男イシュマエルから死ぬほどの苦しみを味わって離れました。 この子はアブラハムにとって明るい未来と子孫の約束をする者でした。 年老いたサラの子イザクの誕生によって、アブラハムは喜びを取り戻し、いつか自分の孫を見る希望をもう一度掴みました。 神の約束の芽生えを見たアブラハムは、平和の内に死ぬことが出来ると思いました。
しかし、その喜びも束の間、今度も神がとんでもない要求をします。 神の命令は明確なので剣のようにアブラハムの心を突き刺しました。 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と。 従順にアブラハムは直ぐに出発し、神への信頼を一度も失いませんでした。 ヘブライ人の手紙を書いた人は、このことについて次の証をします。 「 アブラハムは、イザクを献げました。 つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 …アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。 それで彼は、イザクを返してもらいました」(ヘブライ11,17、19)。 聖パウロもローマの信徒への手紙の中で同じ証をします。 「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、…多くの民の父となりました」 (ローマ4,18)と。
それから数世紀の後、神ご自身が私たちの救いのためにご自分の子イエスを捧げました。 彼は洗礼者ヨハネの洗礼の時に「私の愛する子」と神が示した方であり、ご変容の山で、もう一度ご自分の「愛する子」として確認された方です。 その方を神は愛によって捧げるでしょう。 今日、神の愛の内に光り輝いているご自分の子イエスを父なる神は弟子たちに、はっきりと見せるのです。 数日後、全人類に対する限りない愛を示すために、神は悲痛な思いで自分の子イエスを死刑執行人に渡すでしょう。 創世記の話によれば、藪の茨に角を捕えられていた一匹の羊によって、イザクは死から救われました。 同様に、全人類を死から救う神の小羊イエスの頭に茨のかんむりが被せられるでしょう。
「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8,34)と聖パウロがイエスの弟子たちに続いて宣言します。 キリストは復活されましたが、彼は永遠に栄光の内に私たちのために執り成す、十字架に付けられて屠られた神の小羊です。 言い換えれば、全ての命の泉である神はご自分の命に死を入れました。 「彼はわたしの愛する子」と言いながら、天と地を結び合う十字架の方へ、神は私たちの目を向かわせようとします。 イエスの十字架は、私たちの命の泉であり、神の永遠への道に置かれている生きた水の泉です。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と聖パウロが断言します。 死も失敗も暗闇も神の愛から私たちを離れさせるものは何一つありません。 神の燃える愛を受けながら、私たちはイエスと共に耐え忍んだ苦しみ、体験した様々の死によって、父なる神の親密さの中に深く入ります。 これこそ死者の中から復活することです。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」( 2コリント3,18)と聖パウロはコリント教会の信徒に説明しました。 結局、神の子であること、またキリストの弟子であることは、父なる神と救い主イエスを真似ることです。 あるいはまた、惜しみなく自分の命を捧げることです。 私たちは与えたものを百倍にされて、もう一度いただくことを知っているので、とても幸せです。 アーメン。
四旬節第3主日 B年 2015年3月8日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト20,1-17 1コリント1,22-25 ヨハネ2,13-25
聖ヨハネは一世紀の終わり頃、つまりエルサレムの神殿の破壊の三十年後に自分の福音を書いたことが知られています。 聖ヨハネが書いた時には、大勢のイスラエル人は遠い国の奴隷になり追放されていて、残った人々はエルサレムに入ることが厳しく禁止されました。 都と神殿は、瓦礫の山となり落ちぶれて見る影もない状態となってしまいました。
聖ヨハネは二十歳の時に自分の目で見たエルサレムの神殿の出来事を八十年後に私たちの為に書き残しました。 多くの弟子たちが殉教した中で、まだ生きているキリストの最後の弟子として、聖ヨハネは復活の出来事の光でキリストの不思議な言葉を述べ伝えます。 「この神殿を壊してみよ。 三日で建て直してみせる」と。
ソロモン王によって建てられたエルサレムの神殿は、何度も破壊され、何度も建て直しをされましたが、最後にはローマ人によって完全に破壊されました。 昔の神殿は素晴らしいものでした。 現在、残っているのはその神殿の支えの部分で「嘆きの壁」と呼ばれています。今日この嘆きの壁の前で、ユダヤ人は祈りながら「シェキナ(shekina)」つまり神の現存を捜しに来て、礼拝します。 昔イエスも前もってイスラエルの民の悲劇を預言した時に、エルサレムの不幸を考えて泣きました(ルカ19,41-48)。
神に祈り、礼拝する為には場所が必要です。 イエスがサマリアの女に教えたように、私たちはもはや「山の頂上やエルサレム」(参照:ヨハネ4,21)では礼拝しません。 神の真の神殿は私たちの心です。 人間の中にこの神殿を建てる方は神ご自身です。 聖ヨハネはイエスの体を基にして、つまりイエスの体を使って、そのことを私たちに理解させようとします。 「この神殿を壊してみよ。 三日で建て直してみせる」と。栄光ある復活されたキリストを前にしてイエスの弟子たちも、そして全てのキリスト者も、神がご自分の現存を表すのは、ある建物の中ではなく、むしろある方、キリストの内だけにその現存が啓示されていることを体験し、理解します。 また、キリストの体は信仰によってここに集まっている私たち自身です。
教会の典礼はこの神秘の内に私たちを招き入れます。 「知らないのですか。 あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿である」(1コリント6,19)。 「あなたがたはキリストの体である」(1コリント12,27)と、聖パウロは聖ヨハネに四十年先立って宣言します。 この四旬節の間に受難を迎えるキリストに従って、神が私たちに与えて下さった尊さをもう一度発見しながら、どれほど私たちが神の現存の神秘を自分たちの人生の内に生きるように召されているかを悟りましょう。
また、イエスをよく見てみましょう。 彼は神の真の神殿であり、キリストの内にだけ神と出会うことが出来るからです。 そして互いに互いをよく見てみましょう。 それはお互いを批判する為ではなく、むしろ、キリストに結ばれて私たちも神の神殿であり、この世を救うキリストの神秘的な体であることを悟る為です。 「私たちの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3,3)ことを度々思い起こしましょう。 イエスご自身がそれを証しします。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人に愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14,23)と。 聖パウロの厳しい言葉を覚えましょう。 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。 神の神殿は聖なるものだからです。 あなたがたはその神殿なのです」(1コリント3,16-17)と。 「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6,19-20)と聖パウロは要求します。
従って私たちはすべての人を尊敬し、その人の内に神の神殿を見分けるように努めなければなりません。 もし私たちが、人と出会う時に聖なるものに対してのセンスを持っていれば、この武庫之荘教会の中をはじめとして、世界中でもたくさんの事柄が変わるでしょう。 私たちは神の神殿であり、私たちは神の神性に与かっているからこそ、聖パウロが勧めたように、自分たちの生き方によってそれを現さなければなりません。 私たちは神に属する者である事、キリストの体と聖霊の神殿である事を、行いと言葉によって具体的に示す責任を持っています。 ですから、互いを互いに尊敬し合い、支え合って、互いの為に祈りましょう。 アーメン。
四旬節第4主日B年 2015年3月15日 グイノ・ジェラール神父
歴代誌下36,14-16、19-23 エフェソ2,4-10 ヨハネ3,14-21
今日の典礼は救いについて語っています。 歴代誌の話によれば、バビロンへ追放されたイスラエルの民が自由になった理由は、神が異邦人であるペルシアの王キュロスを選んだからです。 エフェソの信徒への手紙の中で、ただイエスによって神が私たちにご自分の愛を示したという訳だけで、私たちが救われたことを聖パウロは説明します。 そして、「神が誰をも裁かれないことを」聖ヨハネは自分の書いた福音の中で述べています。 神は私たちを救います。 しかし人が各自、神の愛を受けるか、それとも否定するかは、いつも自由です。
「信じない者は既に裁かれています」とイエスは断言します。 この裁きは私たちの選びの結果です。 確かに私たちが救われ、永遠に幸せであるように、神は全力を尽くしておられます。 神が愛であることを信じる人には、神はご自分の無限の愛を簡単に示すことになります。 しかし、神が愛であることを否定する人に対しては、神はもはや彼にご自分の愛を示すことができません。 救いは決して自動的ではありませんので、私たちの自由を尊重する神は、人の否定の前に無力になります。 しかし、人がいつか良い選びをすることを神は諦めずに希望し、待っておられます。 こういう目的で、聖ヨハネと聖パウロは愛によって私たちの為に十字架に付けられたキリストをよく見るように招いています。 ですから、私たちを救う為に自分の命を与えるイエスを信仰の目で仰ぎ見ましょう。 昔、毒蛇に噛まれたヘブライ人も自分の命を保つ為にモーセが上げた青銅の蛇を見る必要がありました。 それを拒んだ人たちは、皆死んでしまいました。
神の愛を信じる事は、私たちを愛し、守り、自分の持っているもの全てと共に自分自身をも与える神に、自分自身を委ねることです。 そして、神の愛を信じることは、何よりもまず永遠に自分のすぐそばに私たちを置きたい神に、揺るぎない信頼を示すことです。 聖書のすべての物語は、このことを何度も何度も繰り返します。 神の愛を疑って、偶像礼拝をしたイスラエルの民は神を捨てたので、あっという間に、戦争、飢饉、疫病、追放、そして奴隷になるという不幸が人々に襲いかかりました。 それにもかかわらず、神はただの一人も罰しませんでした。 神は人を救い続けます。 というのは、神を疑うことによって神の愛を無視する人は悪い選びをしてしまうので、神ではなく自分自身で自分の上に不幸を引き寄せるのです。 病気、事故、愛する人の死が自分の人生に起こる時、もし私たちが神の愛を疑うなら、それは神から遠ざかる可能性と自分の身にもっと恐ろしい不幸を引き寄せる危険となります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛している」とイエスは私たちに打ち明けました。 この愛の唯一の証拠は十字架にかけられたイエスご自身です。 ご自分の愛を証しする為に、神は私たちの為に死ぬ事を選びました。 この愛に対して疑いを持っているならば、イエスが語っている暗闇の中に私たちは留まります。 しかし、私たちに対して示されている神の愛を信じるなら、私たちは光の中に生きている者となります。 聖ヨハネの福音の至る所で光と暗闇のテーマがよく出てきます。 この光と暗闇は、いつも信仰と不信仰に結ばれているのです。
「真理を行う者は光の方に来る」とイエスは言いました。 神の愛の証拠であるキリストの十字架の光で私たちの信仰を照らしながら、神の前にも、また出会う人々の前にも真理の内に自分の全てを現しましょう。 「悪を行う者は皆、光を憎む」とイエスはニコデモと私たちに断言します。 神を信じるなら、私たちは想像できない未来を決して恐れないでしょう。 神は世の終わりまで毎日一緒におられるからです。 全てのことに対して希望を失わないように、度々聖パウロの言葉を思い起こしましょう。 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その独り子さえ惜しまず死に渡された方です。…だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。…わたしは確信しています。 死も、命も、…現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8,31-32、35、38-39)と。 私たちはこの言葉を信じますか。 或いはまた、信じたいですか。 答えは、私たち一人ひとりの心の中にあります。 アーメン。
四旬節第5主日 2015年3月22日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ31,31-34 ヘブライ5,7-9 ヨハネ12,20-33
「イエスにお目にかかりたいのです」と、エルサレムの過ぎ越しの祭りに来たギリシャの巡礼者は願いました。 不可思議な願いでしょう。 何故なら、もし彼らがイエスを見たいのなら、彼らはイエスのすぐ傍に近寄ることが出来るからです。 このギリシャ人たちは自分の好奇心を満足させるよりも、イエスと出会いたいと言う深い希望を抱いています。 彼らがイエスと出会ったかどうかについて福音書は全く教えていません。 とにかく、もし聖ヨハネが書き記したイエスの訳のわからない言葉を彼らが自分の耳で聞くことが出来たとしても、きっと彼らは何も理解出来なかったでしょう。
今日の福音の箇所を理解する為には、先ずイエスの言葉と行いは、彼が父なる神に遣わされた者であることを思い起こす事が必要です。 次に私たちは、イエスは「何をしたか」、「何を言ったか」についての認識から信仰に移ることはとても大事です。 イエスが話している群衆に聞こえた天からの声は、イエスを信じるようになる為のはっきりした神の誘いです。 確かに、イエスは間もなく受難に入るでしょう。 ヘブライ人への手紙は、この神秘の深さを見事に述べています。 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と。 あっと言う間に私たちは、十字架の神秘の前に置かれています。 私たちを救う為、私たちと神とが和解する為にイエスは父なる神から遣わされたことを忘れるなら、十字架は受け辛い躓きとなるのです。
イエスは命を与える為に死ぬ一粒の麦です。 神の栄光が私たちに与えられるように、イエスは侮辱され、ののしられ、笑い者とならなければなりません。 父なる神の国に入る為、そしてこの国で神によって高められる為に、私たちは苦しみを受けて死ぬイエスに従わなければなりません。 聖ヨハネはそれしか教えようとしませんでした。 信仰なしには、イエスの話は理解し難い、不可解な言葉として留まります。 ご自分の受難を考えながらイエスは自発的に話しましたので「人の子が栄光を受ける時が来た」と打ち明けました。 しかし同時にさし迫った自分の恐ろしい死を想像して、イエスはすぐ真剣に神に懇願します。 「父よ、わたしをこの時から救ってください」と。
この時についてイエスはいつも考えていました。 三年前のカナの婚礼の時に既に、イエスは「婦人よ、私の時はまだ来ていない」(ヨハネ2,4)と自分の母に答えました。 しかし今はイエスの死がとても近いので、彼は恐怖を感じています。 それでもイエスは勇気を取り戻しながら、自分の弟子たちに自分の死の意味を理解させようとします。 イエスの死は光栄ある勝利となり、神ご自身に栄光を与えながら永遠の実を結ぶでしょう。 ですから栄光の内にイエスを見たい人たちは、まず受難の苦しみによって人間の姿を失ったイエスを見なければなりません。 信仰を持って、十字架に上げられているイエスを見る人々だけが、光の内に上げられ、神の右に座している復活されたイエスを見る事が出来るでしょう。
確かにイエスの十字架は命と復活の泉です。 イエスの十字架とその受難も全人類に与えられている勝利の明白なしるしです。 イエスの死は「この世の支配者」(ヨハネ12,31)、そして悪のすべての力に対する大きな勝利です。 十字架に上げられたイエスの死は全世界に救いをもたらし、すべての人に永遠の命を提案します。
十字架はこのような私たちを当惑させる、提案をします。 苦しみと死を通してイエスに従うように、十字架は全ての人を招きます。 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。 そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。 わたしに仕える者がいれば、父はその人を高めてくださる」(参照:ヨハネ12,26)と、イエスは断言します。 神に大切にされることは、神の命に与かることです。 聖イレネオをはじめ昔から教会のすべての教父たちが、それを繰り返して納得させます。 「神が人間になったのは、私たちが神になるためです」と。 ですから神の望みに信仰と喜びを持って応えましょう。 アーメン。
枝の主日(受難の主)B年 2015年3月29日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ50,4-7 フィリピ2,6-11 マルコ14,1-15,47
フィリピの信徒への手紙の中で、今聞いたばかりの聖書の箇所の前にある節は、私たちの為に命を与えた「キリスト・イエスが抱いておられたのと同じ思いを抱くように」(フィリピ2,5)と勧めています。 ですから、私たちは無関心で、関係のないこととしてキリストの受難の話を聞かないように努力しましょう。 そして、聖金曜日の夜にもう一度聞くこの受難の話をキリストと共に親密に生きようとしましょう。
エルサレムの婦人たちと共に、私たちの為に死に向かうイエスに従って、深い信仰を持ってキリストを仰ぎ見ましょう。 死の最期までイエスは忠実でした。 つまり、ご自分の父への限りのない愛に対しても、私たちへの憐れみ深い愛に対しても、イエスは忠実でした。 自由に承諾したご自分の受難によって、イエスは罪の力を滅ぼしました。 この罪のせいで、ユダはイエスを裏切り、弟子たちは皆イエスを捨てて逃げてしまいます。 この罪のせいで、ペトロはイエスを三度否定し、律法学者と大祭司たちはイエスを憎みます。 この罪のせいで、ピラトも群集も臆病で卑怯な者に陥ります。
ご自分の上に降りかかる暴力にもかかわらず、イエスは「愛する人」、「最後まで愛し続ける人」として留まります。 いくら苦しみや嘲りや侮辱の淵に置かれても、イエスはご自分に委ねられた愛と赦しの使命に対して最後まで忠実でした。 これからは、キリストが始めた愛と赦しの業を私たちが続けるかどうか、つまりイエスと共にこの世界を覆っている罪と死の暗闇を追い払い、この世界の為に命の実を結ぶかどうかの問題は、私たちの手の中にあります。
ですから、キリストの受難の話を聞く時「キリスト・イエスが抱いておられたのと同じ思いを抱くように」努力しましょう。 キリストが抱いた思いは次のようです。 弱い人々への共感や同情、罪びとに与える憐れみと赦し、苦しんでいる人々に表す慰めの行いと言葉、従順への勇気、受けた使命に対する忠実さと受けた使命を実践する謙遜さ、滅びの道に走る人々のための執り成しと涙、そして何よりもまず神と私たちに対する揺るぎない信頼と愛です。
勿論、私たちはそのような思いを自然に持っていません。 しかしこれはイエス・キリストが歩いた道であります。 そのお蔭でイエスは栄光を受け、全てのものの上に上げられました。 いつか必ず「全ての造られたものは、イエスの御名にひざまずく」(フィリピ2,10)でしょう。 アーメン。
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